コラム

 

大学・大学院における「災害マネジメント」教育の必要性

 このホームページでは、「防災」ではなく、「災害マネジメント」という言葉を使っていますが、その理由を簡単に説明しておきたいと思います。
まず日本の大学では、「災害を防ぐ防災研究」のかなりの部分は、「自然現象である災害の研究」です。日本の大学には、「防災」や「災害」を付けた組織が既にたくさんあるのですが、その多くは、理学的な観点から自然現象としての災害の研究と、工学系(主に土木系)の観点から構造体による減災の研究が中心です。社会科学的な観点から、いかに災害による被害を防ぐか(防災)について取り組んでいる組織は、あまり多くありません。


 もちろん、地震や津波の発生メカニズムを知る災害研究は、将来の災害の規模や被害を予測するために非常に重要です。しかしながら、「将来、どのような災害が起こるか」に加えて、「それをどのように防ぐか、どう対応するか」という研究もまた重要なのです。残念ながら、後者、特に政策や人材育成などソフト面については、研究・教育に取り組む組織は限られています。
 

 一方、海外に目を向けると、日本語の「災害」には、hazard(台風、地震、津波など自然現象としての災害)とDisaster(震災、水害など社会的被害としての災害)の二つの訳語が区別されています。そして、日本の「防災」に近いニュアンスの用語として、主に「Emergency Management」「Disaster Management」が使われています。このホームページでは、その訳語として「災害マネジメント」という用語を採用しています。
 

 かつてアメリカでも、災害マネジメントを教える大学はほとんどありませんでした。しかし1994年にノースリッジ地震を経験したこともあり、FEMA(Federal Emergency Management Agency)の一部門であるEMI(Emergency Management Institute)は,大学と連携して防災・危機管理の大学教育プログラム(Higher Education Program)の開発に力を入れます.その結果,大学のプログラムは1995年の4から,2006年には141にまで増加しました。これらのプログラムには、実務者が仕事をしながら受講できるよう、大学院の通信教育のカリキュラムもあります。
 

 残念ながら日本では、災害を社会現象として捉えたEmergency Management, Disaster Managementに該当する内容を、体系的に教育している大学・大学院はあまり多くありません(独立した学部・学科レベルになると、関西大学、千葉科学大学、神戸学院大学くらいでしょうか)。アメリカが、災害マネジメントの人材を育成し、災害被害を減らそうとしていることとは対照的です。神戸大学での任期中は、防災の研究・教育・実践を通して「災害マネジメント」の分野の確立に力を入れていきたいと考えています。

           アメリカにおける防災・危機管理の大学プログラム数の推移

 


危機対応に求められる職員の職務環境への配慮  -新型インフルエンザの事例から-


 早いもので、弱毒性新型インフルエンザが大阪・兵庫で発生してから1年近くが経つ。当時、自治体や民間企業の新型インフルエンザ対応を見聞きする機会を得た。それら自治体の対応と民間企業の対応と比べて、最も大きな違いを感じたのが、社員・職員の感染対策である。

 当時、強毒性新型インフルエンザ対策のBCPを有していた民間企業では、社員や来客を新型インフルエンザに感染させないためにどうするかが最重要課題の一つになっていた。これは、新型の毒性が明確でない段階では正しい判断である。もし危機対応をする社員に新型インフルエンザが発生すれば、感染防止のため濃厚接触者を含めて自宅待機させなければならず、下手をすると危機管理担当者やトップが自宅待機ということにもなりかねない。

 しかしながら自治体の場合には、例えば職員やその家族の毎朝の検温や、子どもの通学高校のチェック、来訪者の検温・手洗い・消毒などの予防対策が徹底されたという話は、私が知る範囲では聞かない。アルコール消毒が置かれた例はあるが、数日経ってからであり、強制はされていなかった。検証報告で職員の感染予防策の問題が取り上げられるのではないか、と期待していたのだが、残念ながらほとんど触れられていない。

 自然災害の際、現場の社員・職員のハードな勤務状況には、本当に敬意を払うしかない。そのモラルの高さは評価されるべきであるが、法律的には、労働基準法第33条(災害等による臨時の必要がある場合の時間外労働等)で、自然災害等の場合には、労働時間の延長や休日労働をさせることができるとされている。しかし、新型インフルエンザの場合、さらに複雑な問題として、社員・職員の感染予防を怠った場合には安全配慮義務違反として雇用者側が訴えられる危険性がある。その法的な対応をどうするかが、企業では課題となっている。例えばマスクの配布と消毒スプレーの設置だけでは不十分で、その使用の管理・教育までが必要とする見解がある(中野明安「もうひとつの新型インフルエンザ対策」より)。自治体でも、内部ではここまで考えられているのだろうか。法的なリスク対応も含めて、職員を大切にした危機対応を心がける必要である。

 一般的に、CS(Customer Satisfaction:顧客満足度)とES(Employee Satisfaction:従業員満足度)には、高い相関関係があることが分かっている。ESが低い職場では、中国での毒ギョウザ事件のような従業員
による故意の事件や、意図しないサービスや製品の質の低下が起こる可能性がある。これは災害時や新型インフルエンザ対応においても同じである。被災者の満足度を高めるためにも、担当者は平時から誇りを持って働けているのか、災害対策本部は安心して災害対応に集中できる環境になっているのか、振り返り考えてみてはいかがだろうか。

阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センターメールマガジン、2010.4 .17発行、Vol.42より

 

逃げますか? 助けますか?
 

2月28日のチリ地震による大津波警報、若手防災研究者の皆さまも大変だった方が多いのではないだろうか。私が働いている人と防災未来センターでも、大津波警報による自動参集がかかり、テレビやホームページで情報収集をしていたが、結果的には養殖イカダなどの被害に限定され、人命への被害には至らず幸いだった。

津波についてとりあげたテレビのニュースの中で、高齢者などの要援護者を避難させる場面があった。例えば和歌山県の津波避難計画策定指針では、「災害時要援護者(以下「要援護者」)の避難支援は、自助・地域(近隣)の共助を基本とし、」とあるように、自治体では、津波の際に近隣での共助により、一人暮らしの高齢者などの避難を支援しようという動きがある。

でも、東南海、南海地震で、あと何分かで津波が来るかもしれない、というときに、本当に要援護者を助けられるのだろうか。もし地震が起こって、いつ津波が来るかも分からない真っ暗闇の中、生き埋めになっている人を救出し、ふさがれた道を運ぶことを住民に求めることができるのか、個人的には非常に疑問である。

行政として、平時から訓練して避難できる仕組みをつくっておくべきだ、と正論を言うのは理解できる。でもそれは責任を近隣住民に押しつけて逃げているだけではないか。専門家としては、嫌われ者になって、要援護者には「安全なところに住んでください。そうでなければ、津波の時には、近所の方の命を救うため自分で避難するか、申し訳ないがあきらめてください」と、一般の方には「自分の命よりも大切な人がいれば救助に向かってください。そうでなければ、自分の安全を考えて津波から逃げてください。」と言うべきで、そうでなければ本当に津波で地域が壊滅した際、「自分は逃げてしまった」、「あいつを救えなかった」と、生き残った者の心やコミュニティの絆がもたない。大学時代、ワンダーフォーゲル部にて山登りをしていたが、そこで何度も強く言われたのは「二次災害の危険性がある場合には救助に行ってはいけない」ということだ。それは、自分というよりも、万が一の際、仲間の命を守る知恵であるが、いざという時、それを本当に守るためには、共通認識として何度も繰り返し刻み込む必要がある。「津波てんでんこ」ということわざも、それと同じ悲しくも優しい地域の知恵なのだろうと思う。

もうひとつ、一般の人(自主防災組織)が、災害時に要援護者を含めた他人の救助・避難支援をしていた場合の補償の問題がある。これは大分大学の山崎先生のコラム「『寝た子を起こす』法学者」(1月14日)でも触れられているが、人防に研修に来ていた自治体職員から尋ねられた際に調べたので、ご紹介したい。消防庁の方に聞いてもよく分からず、ちょうど検討会を開催していた岡山県と消防団員等公務災害補償等共済基金の方に電話で確認した結果である。

・水災以外の災害:消防法の規定で、緊急時には従事命令が不要な場合もある。
・水災(洪水、高潮):水防法の規定で、従事命令が必要。(勝手に救助活動しても、補償されない。水害は事前に予測できるから、らしい。)
・上記に当てはまらない災害、事故で、人命救助のために緊急の対応が必要な場合には、「警察官の職務に協力援助した者の災害給付に関する法律」で補償される場合がある。(溺れている子供を救助しようとして犠牲のなった場合は、水防法の適用外でも、こちらで補償される可能性がある)

特に判断が難しいのが、従事命令が不要か必要か、そして従事命令が何か、ということだ。災害対策基本法では、例えば市長が記者会見で、「市民の人は、それぞれで助け合って救援活動をしてください」と言ったら、それをもって従事命令と見なされる、という議論もあるらしいが、明確な基準は(2007年時点では)なかった。なお、詳細は岡山県の資料をご参照いただきたい。
http://kikikanri.pref.okayama.jp/gcon/shiryo2_4kai_kadai.pdf

 上記の補償の問題は、目撃者がいなくても事後の状況から救助活動をしていたかどうか推定し判断することも可能とされている。しかし、津波の場合は遺体が流されてしまうため、事後の状況からは、救助活動中亡くなられたのか、そうでないのかは判断できない。共助に頼る津波避難計画やコミュニティの防災計画等の策定を進めるなら、例えば自主防災組織の救助班員については消防団員に準じて補償されるなど、補償の基準を明確にすべきだと思う。災害後、意見が分かれそうな問題こそ、平時において議論と合意が必要である。

(注:補償については2007年に調べた内容なので、最新の情報があれば詳しい方にコメントいただけると助かります)

若手防災研究者の会への寄稿コラム(2010年3月8日)を加筆修正。
 

 

「震災前」の記憶・教訓をどう伝えるのか


 人と防災未来センターは、2002年に国の支援を得て兵庫県が設立した。阪神・淡路大震災に関連した映像・記録の展示が有名だが、研究部門も設置され、7名の研究員が将来の災害被害を減らすために研究している。
 私が大学院で都市計画を学んでいた時に阪神・淡路大震災が発生し、それをきっかけに火災や避難所、住宅被害、復興まちづくりの実態調査にかかわることになった。直後の被災地は混乱しており、調査では、被災者や避難所の方から「それが何の役に立つんだ」と厳しい口調で言われることもあった。目の前の被災者のために役立てない悔しさをきっかけに、社会に役立つ実践的な研究の必要性を感じ、アカデミズムと現場の実務の両方からアプローチしようと考えるようになった。
 それから15年。主に経済復興や復興まちづくり、企業・自治体のBCP(事業継続計画)などの分野を専門にしているが、阪神・淡路大震災はいまだ終わっていない。震災をきっかけに工場が移転・閉鎖した結果、製造業出荷額や雇用の減少は、被災地外と比べると回復していない。また臨海部の被災した工場や倉庫の跡地には大規模店舗が多数進出し、商店街の売り上げは減少したままである。
 なぜ復興が進まないのか。震災後の問題の原因の多くは、実は震災前に隠れている。最大の教訓は、事前対策ができていなかったことである。しかし、現在、「無防備で被災する怖さ」については、忘れられようとしている。例えば震災では、老朽化した木造賃貸住宅が大きな被害を受けたが、老朽住宅の耐震改修は進んでいない。さらに各地自治体の耐震改修補助制度は、対象が持ち家戸建て住宅に限定される例が多く、賃貸住宅への対応は不十分である。企業のBCP(事業継続計画)策定率や地震保険への加入率についても、首都直下地震や東海地震が懸念されている東京や東海地域よりも、関西は低迷している。
 復興まちづくりにおいても、「震災後」だけでなく「震災前」の風景・町並みを伝えることは重要だ。震災前の町並みは、生活者の生き様が形になったものであり、今は被災地にいない人たちと共に過ごした思い出の記憶である。「復興」という言葉の陰で、震災前の被災地の風景や被災者の生活の記憶が忘れられようとしているのではないか。
 2008年5月に発生した中国の四川大地震では、壊滅した漢旺や北川の市街地を遺跡として残そうとしている。それがつらい記憶のまま残るのか、懐かしい記憶に昇華されるのかは分からない。けれども、そこには確かな記憶の手がかりがある。残念ながら阪神・淡路の被災地では、記憶の手がかりが見えにくくなっている。震災前の神戸や阪神間、淡路の姿や、生活していた人々の思い、教訓をどう伝えるのか。震災20年目に向けたまちづくりや語り継ぎでの重要なテーマである。

神戸新聞「人と防災未来センター 研究員リレー報告」2010年4月5日より。